若い女性の眼球を剃刀が切り裂き、中から銀色の水晶が溢れて来る。3歳の時その悪夢を見た瞬間にヒトミは完全に失明した。
聴覚は健常者に比べ発達し、更に自分に必要な音のみを聞き分ける能力も身に付けた。例えば雑音や生活音から、人の話し声や息遣いのみを切り取ったりする事もできる。
その能力が仇になり自分への陰口や噂が耳に飛び込んできてしまう時もあった。盲学校時代には感じなかった他者の心無い悪意は、社会に出た彼女を容赦なく傷付けた。
按摩師の国家資格を取得し、二十歳を過ぎた頃には主に男性の下半身を按摩する職業に従事した。ハンデを持つヒトミにも世の中は世知辛かった。
付き合った男は大体金をせびって来た。その中の一人が言った
「世間ってのはでかい糞の塊で、それに群がるハエが人間だ」
そうだろうなと思った。
その男は酔った時に「えるとぽ!えるとぽ!」と叫びながら自らの眼球を剃刀で切り裂いた。出て来たのは水晶で無くただの血だった。ヒトミはこいつは放し飼いにしてたらダメだと思って男と籍を入れた。
2004年、毎夏苗場で行われる音楽フェスティバルに彼女は居た。椎名林檎のやっているバンドを見に来て、男と喧嘩して道に迷った。椎名林檎が演奏をするのはホワイトステージで、その隣にあるグリーンステージで彼女は途方に暮れていた。
そこでは既に別のバンドが演奏を始めていて、凄まじいまでの歓声と人の波にモッシュによるおしくらまんじゅう、理解不能な言語、手も足もさかさまになった様な猛烈なうねりと熱気、阿鼻叫喚なのか喧喧囂囂なのか彼女はとにかくもみくちゃになりながら濁流のような人ゴミに嬲られ憔悴しきってその場に崩れ落ちた。白杖ももぎ取られ、この野郎と思い始めた瞬間、一瞬の静寂がステージに広がった。
遠くの方からシニカルなギターのイントロが聴こえてくる。そして英語の歌でヴォーカルが何かを叫び出した。
彼女の聴覚は一点に研ぎ澄まされ、その音楽と直結した。バンドのフロントマンが何を喚いているのかは全く分からなかったが、彼女は瞬時に理解した。それが3歳の時に見た悪夢の事を歌っているのだと。
若い女性の眼球を剃刀が切り裂き、中から銀色の水晶が溢れて来る。
ヴォーカルは「アーハーハーハー!」と狂った様に笑いながら歌った。全くその通りだった。彼女の頭の中は、目の奥は、あの悪夢を見て以来血や肉や脳味噌とは別の何かが詰め込まれてしまって、わやくちゃに支配されてしまっていた。
目から銀色の液体がポタリと落ちた。良く見るとバンドのフロントマンはハゲあがったデブだった。